Jan 21, 2009

国内旅行ツアーの自由

北海道国内旅行してきました。ツアーといっても交通機関や宿泊施設でのみ定められており、そのホテルに到着すると出発まで自由です。ホテルからレンタカーで自由に観光地を回ってきました。これらの国内旅行ツアーは、個人でチケットを購入するより安価な料金で利用することができますからレンタカーで回っても予算に含めることができます。
卒業旅行シーズンが近づいている。卒業旅行で海外に出る方も多いのではないでしょうか。卒業旅行に出る学生を対象とした商品、安価な海外航空券を利用すれば、より安く海外旅行を楽しむことができます。格安航空券は、早めの予約が鍵となります。人気の航空会社、旅行先の格安航空券はすでにできなくなってしまいます。
 ◆第93回高校野球選手権宮崎大会 ▽2回戦 宮崎一1―4宮崎日大(14日・アイビースタジアム) 圧巻だった。0―1の5回、宮崎日大の武田翔太(3年)がギアを上げた。無死一、二塁から3者連続三振。「1点取られて、開き直れた。うちは後半に強いのでバックを信じていました」。8回に4点を奪っての逆転勝ちに、187センチの剛腕が笑顔を見せた。

 この日は最速147キロの直球に加え、変化球も切れた。9回6安打1失点の11奪三振。ネット裏には日米13球団のスカウトが集結した。巨人・武田スカウトは「あのスライダーは高校生には打てない」と絶賛した。

 本人の憧れは日本ハム・ダルビッシュ。MAX151キロの直球にスライダー2種類、カーブ3種類、フォーク、シュート、チェンジアップを投げ分ける。「遊びで握っていたら投げられるように」という器用さは魅力だ。宮崎大会決勝まで残り4試合。「全部勝ちますよ」。2011年の高校NO1右腕が甲子園を目指す。

 ◆武田 翔太(たけだ・しょうた)1993年4月3日、大分・別府市生まれ。18歳。小学1年で宮崎に移り、住吉小4年でソフトボールを始める。住吉中から本格的に野球へ転向以来ずっと投手。中学3年で県大会出場。宮崎日大では1年秋からベンチ入り。187センチ、80キロ。50メートル6秒7。遠投120メートル。家族は両親、姉2人。

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 ◆第93回高校野球選手権岩手大会 ▽1回戦 専大北上11―5福岡工(14日・岩手県営) 夕暮れの大空に高々と打ち上がった。5点リードの8回2死三塁。専大北上の中村晃広左翼手(3年)が右越えに適時三塁打。「自分よりチームが勝つことが大事だから」。ガッツポーズすらなかった主将にも、その姿を見せたかった人が天国にいた。

 岩手・大槌町にあった自宅は、大津波ですべて流された。父・英知さん(享年59歳)は釜石市で津波に遭い、5月1日に変わり果てた姿で発見された。それでも、中村は必死に主将であろうとした。荼毘(だび)に付された同4日にチームを離れるまで、誰にも事実を明かさなかった。「自分のことを心配するなら、(ナインに)野球に集中してほしかった」。祖母もいまだ行方が分かっていない。

 漁師だった父は、野球をする息子が大好きで、グラブをいくつも買い与えた。母・わささん(58)は「プレゼントするのがとにかく楽しみだった」と思いをはせる。だが、その思い出のグラブも津波で失った。生前に買ってもらったスパイクで駆け回った息子の姿に、「お父さんもきっと近くで見ている気がする」とほほ笑んだ。

 最後の夏。「活躍している姿は見せたかったけど、自分よりもチーム。目標は全国制覇です」。主将は亡き父への思いを胸に戦っていく。

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 体協、JOC創立100周年の節目に「スポーツ界の過去と現在、そしてこれから」を考える「未来への助走」。第3部は、アジア初の聖火をともした東京五輪からいまをつなぐ。

 石原慎太郎都知事の言葉には濁りがない。

 「五輪はやる。必ずやる。絶対やるんだ」

 今月5日に都内で開かれたシンポジウムの終盤、知事の口から飛び出た“宣言”には、自ら退路を断つような重たい響きがあった。2016年夏季五輪招致の敗北から約2年。次の20年招致に向けて、東京が再び走り出そうとしている−。

 ◆日系2世の愛国心

 今から約半世紀前。東京にアジア初の聖火をともそうとした人たちも、同種の覚悟を秘めていた。日系2世のフレッド・ワダ(日本名・和田勇)は、1964年東京五輪の招致に血をたぎらせた一人。両親が入植した米国で生まれ育ち、ロサンゼルスでスーパーマーケットをチェーン展開するなど、日系人社会の長者として盛名を響かせた人だ。

 49年の競泳全米選手権では、遠路参戦した古橋広之進らに自邸を宿舎として提供。歓待に奮い立った古橋が世界新記録を連発し、「フジヤマのトビウオ」と全米の賛辞を浴びた。その縁がもとで、ワダは後に招致委員会委員の委嘱を受ける。政情不安の中南米を歴訪し、各国の国際オリンピック委員会(IOC)委員から「東京支持」を取り付けるという危険な役目だったが、ワダは快諾している。

 当時は、まだ日系米人が「ジャップ」とさげすまれた時代。五輪史に詳しい真田久・筑波大教授(スポーツ人類学)はこう指摘する。「敗戦国として低く見られた日本のプレゼンスを高めたいという思いが、ワダには強かったはず」。海の向こうで揺れる聖火は「国際社会」の象徴であり、日本人のロマンそのもの。招致活動が、ワダを“愛国の徒”として感化したとしても不思議はない。「東京でオリンピックをやれば、日本は大きくジャンプできる。日本人に勇気と自信を持たせることができる」。難色を示す家族に、ワダは一歩も譲らなかったという。

 開催地を決めるIOC総会は59年5月に予定されていた。ワダは同年3月、南米各地を夫人と2人で行脚し、持ち前の人柄で面会したIOC委員を片端から「親日」へとなびかせていった。わずか1カ月で訪ね歩いた先は10カ国。すべての渡航費が自前という“無私”の積み重ねは、現代から見れば驚きでさえある。

 五輪招致に懸ける思いでは、日本水連元会長の田畑政治も譲るまい。早くから“五輪至上主義”を掲げ、幻に終わった40年東京五輪に向けて選手強化に血道を上げた硬骨の人。後半生を64年東京五輪のためにささげたといってもよく、自著「スポーツとともに半世紀」では「オリンピックをやらないうちは、死んでも死にきれないような気持ちであった」と五輪への激しい恋慕を吐露している。

 ◆「立ち直った姿を」

 約半世紀を経た現代の日本に、当時のような熱源は乏しい。終戦後、焦土の中から立ち上がった東京と、先進国の首都としてあらゆる“本物”を享受した今の東京では土壌が違う。そこに3月11日の東日本大震災が起こり、日本は再び“復興”の十字架を背負わされた。石原知事は6月の都議会で、国民にこう問い掛けている。「今回の大震災からの復興は、戦災からの復興にも匹敵する苦難の道であるだろう。しかし、必ずや立ち直った日本の姿を披瀝(ひれき)するならば、世界中から寄せられた友情や励ましへの何よりの返礼になるに違いない」−。

 再び1964年に戻る。10月10日、「戦後の総決算」ともいえる東京五輪が幕を開けた。

 「ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」

 昭和天皇の開会宣言が秋晴れの空に響き渡る中、国立競技場の来賓席の一隅でワダは感涙にむせんでいる。「日本はこれで1等国になったんや。戦争に負けて4等国になったが、よう立ち直った」。ワダの涙は、再び東京に聖火をともすのに必要な何事かを暗示しているようでもある。

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